重度の認知症になったら“自分の人生を生きる”資格はないのか?
6月30日(日)ドーンセンター特別会議室において、水野裕さん(いまいせ心療センター副院長、認知症介護研究・研修大府センター客員研究員)を講師に迎え第58回O−ネットセミナーを開催しました。
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「おかしくなっている」という偏見・思い込み
脳画像検査などで認知症の診断が進んでいる昨今ですが、認知症とくに発語もなくなった重度の認知症の人に対して、私たちはともすれば「分かろうとする努力」をやめてしまっていないでしょうか。
確かに重度の人たちのニーズに迫るのはとても難しい。しかし家族や介護者の対応の善し悪しが、認知症の人たちの行動や心理に影響を及ぼすことも少なくありません。
例えば、デイサービスの迎えのとき、いつも嫌がる利用者が「○○さーん、おはよう!」とニコニコして手を振ってくる職員のときだけはすぐに車に乗る。
妻と息子が話をしていると機嫌が悪いが、会話の輪に本人を入れると笑顔を見せる。
夫がいきなり服を脱がそうとするとダメだが、ヘルパーが促すとその気になってくれる…。
こうしたケースをみていると「重度だから分かっていない」のではなく、「こちらの対応にこそ問題がある」と思えるのです。
認知症の人は、言葉だけで伝えると分からなくても、実物や動作で示すと分かる場合が多いものです。
にもかかわらず、こちらが本人の気持ちを無視して配慮に欠ける対応をすると、反射的に「拒否」される。
私たちはそれに対して「問題行動」というレッテルを貼っていないでしょうか。
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事実と違っても本人の“今”の思いを否定しない
認知症の人には、しばしば「作話」もみられます。
従来の医学では作話は「事実ではないから」と取り合ってはこなかった。
「本人に聞いても仕方がないから」と家族に尋ねることで「よし」としてきました。
しかし家族が語る生活歴が本人の意識の中にあるものと一致しているとは限りません。
ともすれば家族のイメージにある「本人らしさ」に押し込めてしまう恐れもあると言えます。
例えば、「幼稚園の先生でした」と事実ではないが本人が言う場合、気持ちとしては「なりたかった」ということかもしれない。
それを「間違いだ」と正すより、作話に付き合う方が本人も介護者も幸せなひとときを過ごせると思うのです。
本人の“今”の気持ちやニーズを「事実と違うから」と無視や否定してはいけません。
事実と違うことを本人の「希望」ではなく「重度化の症状」ととらえてしまうと、「しっかり管理しなくては」となる。
そうではなく、何が嫌そうで、どんなとき幸せそうか…。私たちに求められるのは、“今”の様子・行動からニーズをとらえることでしょう。
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認知症診断後も対話絶やさず思いを受けとめる
ともすると私たちはこれまで、認知症になる前の希望や生活歴は尊重するものの、認知症になってからの希望や夢は「判断能力のない人の話だから」と受けとめずにきました。
しかし認知症が明らかとなったときこそ、本人とたくさん話し合うことが必要です。
認知症になって抱く気持ち・思い・こだわりは、当の本人もそのときでないと分からない。
認知症の人の思いを知るには「認知症になった後にどれだけその人と関われるか」にかかっていると思うのです。